お風呂の掃除は念入りにしておけ
出口に向かいかけ、テンペルはさっとふりむき、
「ひとつききたいんですけれど」
「なんなりとどうぞ」
舞台から座長はいった。
「子熊のことですけど」
テンペルは少し間をおいてたずねた。
「熊はどうして、どういうわけで、パイプって名前なんです?」
テオ座長はだまった。薄暗いテントの下、テンペルは身をかためて立ちすくむ。楽屋口からきこえるさきほどからのうなり声はさらに高まってきている。プランクトンの鼻先は、海の底に住まう生き物のように、上下左右へ複雑に動いている。
「お風呂の排水口を想像してご覧なさい」
と、ようやく座長はいった。
「まっくろくて、もじゃもじゃの毛がまるまっていて、その毛のなんぞよりさらにまっくらな闇が、奥へ奥へとつづいている。排水口の闇のパイプ。どうだね、今むこうでほえているあの生き物は、まさにそんなふうじゃあにませんかね。あの毛むくじゃらで、まったく底のしれない、ちいさな黒いけものは、なんだか排水パイプそのものみたいに見えませんか。」
テンペルはかすかに身震いし、かわいた声でたずねた。
「その名前、座長さんがつけたんですか?」
「まさか、とんでもない」
「じゃあ兄貴?」
「いいえ、ちがいますよ」
テオ座長は苦笑して頭をふった。
「先日わが一座におしつけられたとき、すでにそういう名前だったのですよ。先の飼い主は、とうにこの世におりません。パイプの母親に、顔をしたたかになぐられましてね。その熊は役所に薬をのまされ、一匹のこされたあのパイプが、近しい同業だったわが一座にひきとられたってわけなんでね」
「つまり、あの熊を」
とテンペルはいった。
「誰もかわいがっちゃいないんですね」
「正直いって、あまりね」
(講談社文庫 いしいしんじ「プラネタリウムのふたご」P.89~91)
目の前の闇よりも深い闇を目の当たりにしてしまうと指先すらも動かなくなってしまいます。